メダル獲得から一夜明けて取材に応じる荻原健司市長 18日
長野県出身選手3人が出場した17日夜の北京オリンピック・ノルディック複合団体で、日本は粘って銅メダルを獲得しました。28年ぶりのメダル獲得です。
後半クロスカントリーで4位スタートの日本。一走の渡部善斗選手(白馬村出身)が2位に浮上します。
三走はエースの渡部暁斗選手(白馬村出身)。ノルウェーの選手の仕掛けに食らいつき、2位でアンカーに繋ぎます。
アンカーは若手の山本涼太選手(木島平村出身)。2位グループの中で力を残しながら滑り、最後の上り坂でドイツの選手に食らいつきます。
そのまま3位でゴール。1994年のリレハンメル大会の金メダル以来28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得しました。
渡部善斗選手(一走):
「やっと(メダル)取れたなという感じ。長いことメダル目指してずっとやってきて、時間かかりましたけど、やっとここまで来れた。MVPはワックスマンだと思います。本当にすごい滑った」
渡部暁斗選手(三走):
「僕はいいジャンプもできなかったし、クロスカントリーの方もノルウェーに離される形で涼太にタッチすることになって、いい働きできなかったけど、チームのみんなに助けてもらって、最後は『涼太、行け!』という感じで託して、信じて待っていた。団体戦のメダルはチームみんなで喜べて、個人でとるよりも何倍もうれしさがある。この瞬間をみんなで共有できてすごくうれしいし、こういう気持ちを続いていく日本のコンバインドチームの未来に対して、いいメダルだったと思う」
山本涼太選手(アンカー):
「4走に決まった時に、これプレッシャーやばいなという感じで、表には出さないようにしていましたけど、自分の中では一番きついレース展開になるだろうなとは想像できた。やることは変わらないと思っていたので、自分のちょっとよくなってきた滑りが少しでも出せたらいいかなと。まさかあすこの位置で表彰台が争えると思っていなかったので、まずはよかったと思う。(最後は)オーストリア来るなという感じで走っていた。ドイツももう少しのところにいた。いろいろな気持ちがありましたけど、表彰台に先輩方を上げたいという気持ちがありましたので、気持ちが先走っていた」
28年前の金メダル獲得のメンバーで、現在は長野市長である荻原健司さん。以前は、北野建設スキー部部長として、渡部暁斗選手らを指導してきました。
17日の夜のレースは、自宅で家族とテレビで観戦したということです。
Q 日本チームの銅メダル獲得を受けて
長野市・荻原健司市長:
「テレビの前で飛び跳ねて喜びました。特に最終ランナーの山本涼太君のゴール前の接戦は家族全員で立ち上がって、それいけという形で応援していて、久しぶりのメダル獲得にうれしく思います。獲得した瞬間はやったという気持ち、うれしい気持ちがありましたし、それ以上の気持ちもありましたが、うまい言葉がみつからないと思いながらもこんなにうれしいことはありません」
Q 市長がメダル獲得したリレハンメル以来ですが
「アルベールビル、リレハンメルと2大会連続で団体金メダルを獲得し、私自身は98年の長野、2002年のソルトレークと団体戦も出ましたが、98年の長野では団体5位、ソルトレークで団体8位というなかで、すっきり引退できなかったのは正直なところあります。そういう状況の中で、昨日のメダル獲得で胸の中ですっと曇っていた空が晴れわたったそんな瞬間だった」
Q 今後への期待は
「復活の第一歩と言っていいと思いますけど、まずはこの間、日本チーム全体、選手だけでなくコーチ、サポートするスタッフのみんな長い苦労があったと思う。ルールは一瞬で変わります。例えば、国際スキー連盟の理事会会議で賛成・反対で変わりますが、選手を育てていく、強化していくのには長期間時間がかかります。そういなかで、かつては前半のジャンプリード型から現在はジャンプの比重がある意味下がり、走力のある選手たちがいい成績がとれる状況のなかで、すぐに日本チームが対応できなかった、。それが、ようやく28年かけて、こういうところにきたのは、皆さんの努力の賜物だと思っていますし。こういう中で選手たちが自分たちが世界のトップで競い合えるという大きな自信がそれぞれの選手が持てたというのがさらなる成長に向けた良い結果だったとともに、日本のノルディック複合の次に続く若手選手にも励みになったと思う」
長野放送[/MARKOVE]