秋宮スケートリンクで記者が下駄スケートを体験。下駄を履く際は紐をきつく縛るのが重要
長野県下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の「諏訪の下駄スケートコレクション」が、国の登録有形民俗文化財に登録されることになった。その登録理由の一つに「地域の娯楽・遊戯を考える上で注目」とある。庶民でも手が届く下駄スケートの登場により、スケートは諏訪の冬の代表的な娯楽に。特に子どもたちは夢中となり、各学校では校庭に氷を張り授業で滑ったりもした。今もスケートに親しむ文化は引き継がれ、諏訪地域の小学校でスケート学習が盛んに行われている。
岡谷市出身の記者(37)も小学校の時はスケート学習で毎年数回滑っていた。取材を機に、二十数年ぶりにスケートをやってみようと、同町の諏訪大社下社秋宮隣にある冬季限定のリンク「ふれあい広場秋宮スケートリンク」へ。ここでは下駄スケートを借りることができるので、実際に滑ってみた。
スタッフに教えてもらいながら、まず下駄を履き、ひもを下駄底や足首に回して固定。この時、「もっときつく」と何度も言われ、足が痛くなるほどきつく縛った。「とにかく転びたくない」と思いつつ滑り始めたが、足と下駄が一体となったような安心感があり、転倒せず滑ることができた。片足に体重を乗せながら前に進んでいく感覚が懐かしい。自転車に乗るように、子どもの時何度も失敗しながら覚えた感覚は何年たっても残っているようだ。
■庶民でも手がとどく
同博物館によると、明治時代、諏訪は冬の寒さが厳しく、諏訪湖をはじめ池や田んぼに厚い氷が張り、子どもたちは草履や下駄の裏に竹を取り付け滑って遊んでいた。明治中期以降、下駄底に金属棒を取り付けた「氷滑り下駄」が登場。速さを競うことが流行り、氷滑りは諏訪の子どもの代表的な遊びとなった。
氷滑りの流行を受け、1900(明治33)年に中洲小学校(諏訪市)が氷滑り下駄を購入し体育の授業に氷滑りを取り入れた。その後、諏訪湖周辺の学校でも次々と行われていった。
05(明治38)年に鉄道が開通すると、外国人を含むスケート愛好家が諏訪湖を訪れてにぎわった。スケート靴を履き、洋服姿で優雅に滑る愛好家の姿に子どもたちは憧れたが、当時のスケート靴は国産のものでも1足2円50銭(現在の価値で約4万2000円)と高価だった。
そこで、06(明治39)年1月、地元の学生が同町の飾り職人河西準之助に相談。準之助はフィギュアスケートの靴を参考に、熱した鉄を叩いて作ったブレード(刃の部分)と支脚を下駄底に取り付け、下駄スケートが生まれた。
1足30銭(約3000円)で下駄スケートが販売されると、爆発的な人気に。諏訪一円の鍛冶職人も下駄スケートを作り、一気に広まった。08(明治41)年の「第1回諏訪湖一周競争会」が全国紙に掲載されると、諏訪のスケートは全国的にも有名になった。
■諏訪湖や田んぼで
文化財登録の新聞記事を見て、久々に自分の下駄スケートを履いてみようと訪れたという岡谷市の男性(81)がリンクにいた。「小学生の時は諏訪湖や田んぼでよく滑っていたので、文化財になるのはうれしい」と話し、「履いてみて当時を思い出したよ。本当はスケート靴が欲しかったなあ」と笑っていた。
リンクには、今も授業でスケートをする町内の小学生や子どもを連れて氷上遊びを楽しむ家族などが見られる。その姿を見て、下駄スケートが諏訪にもたらした影響を改めて感じ、後世に残すべき文化財との思いを強くした。
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