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宮尾進一さん(92)
長野空襲で生き残った男性は、以前に名古屋でも空襲を体験していました。人の死に接した92歳はあらためて「戦争はしてはならない」と訴えます。
宮尾進一さん92歳も長野空襲の体験者。でも、それが最初ではありませんでした。
宮尾進一さん:
「名古屋でやられて、信州に来てこれでやれやれと思ったら、またやられるからとても逃げきれないかなというような」
宮尾さんは名古屋市出身。終戦の前の年、旧制中学3年でトラックの訓練所に動員されました。
名古屋市は63回もの空襲を受け、市の4分の1を焼失、8000人近くが亡くなりました。
ある日、訓練所に戻ったトラックに腰かけると、荷台が濡れているのに気づきました。
宮尾進一さん:
「(荷台が)水で塩だらけで、教官の話で『死体を運んで、後で洗って(清めの)塩をまいたんだ』と。本当にあの時は、ぞっとしたと言うか何と言うか」
自宅近くにも空襲があり、助からなかった近所の一家を目の当たりにしました。
宮尾進一さん:
「父、子、母と並んで死んでたわけです。爆風で3人とも死んだわけです。川の字になって死んでる。あれは本当に惨めっていうか」
中学卒業後、親戚がいた長野に移り、駅で働き始めます。8月13日、夜勤明けで機関区の風呂に浸かっていると…。
宮尾進一さん:
「バリバリって音がするので(外に)出てみたら、あれはグラマンですか、バリバリッと撃ってるわけです。あわててすぐ前の防空壕に入ったんですけど」
駅は4回、攻撃され、直前まで入っていた風呂場も全壊。宮尾さんが助かった防空壕でも、その後の攻撃で中にいた6人が亡くなったと聞かされました。
故郷・名古屋に続き長野でも…。
宮尾進一さん:
「もう逃げ切れないっていうかね、長野まで(空襲に)来られるようでは」
空襲の2日後、終戦―。
宮尾進一さん:
「ラジオを聞いて(外に)出たら、ちょうど陸軍の兵隊がいて『負けた』って言ってニコニコしとる。あの時は腹立ったですね。負けて喜んでるとは何事だというような」
宮尾さんは戦後も国鉄で働き、駅長も務めました。ただ戦争の恐ろしさ、理不尽さを忘れたことはありません。
自宅近くで掘られた海軍地下壕を伝える「昭和の安茂里を語り継ぐ会」に参加。最年長メンバーとして活動しています。
宮尾進一さん:
「戦争そのものを知らない人が多いですから、こういう過去があったというのを皆さんに知ってもらうのは良いことだと思います。やっぱり戦争はすべきじゃないと、これはつくづく思いますね」
長野放送[/MARKOVE]