伊那市手良中坪の若宮八幡宮に残されている奉納額と軍配
大相撲の御嶽海関=長野県木曽郡上松町出身=が大関に昇進したことを受け、同じ長野県出身で、江戸時代に大関として活躍し、圧倒的な強さを誇った雷電為右衛門(らいでんためえもん)(1767~1825)に注目が集まっている。伊那市手良中坪には、1812(文化9)年に雷電一行が大相撲大興行で中坪村に訪れたと言い伝えられ、当時の番付表が残されている。中坪のあゆみ研究委員会事務局の高橋正行さん(76)=中坪=らが、中坪の相撲の歴史を語った。
雷電は大石村(現東御市)出身。身長197センチ、体重169キロという巨体と怪力で、当時、最高位だった大関に登りつめた。あまりの強さに張り手、突っ張り、かんぬきの三手を禁じ手にされたが、通算成績は254勝10敗2分。勝率9割6分2厘の歴代最高記録は今も破られていない。
45歳で江戸相撲を引退。その後は松江藩の力士として全国各地を巡業し、故郷の信濃にもたびたび訪れた。高橋さんによると、12年9月、飯田で行った興行の帰りに、中坪の若宮八幡宮で幕を張ったと伝えられている。
雷電が記した「萬御用覚帳」では、飯田の次に伊那に寄ったと分かる。だが、中坪に来たことを示す古文書はなく、「長老から伝えられてきた話と奉納額でしか雷電が来たことは分かっていない」と高橋さん。伝承では、大興行は3日間行われたとされる。同神社に残された奉納額(長さ60センチ、幅90センチ)には、相撲文字で番付表が記されている。「西大関雷電為右衛門」の名もあり、力士77人のほか、呼び出しや付人、雑役ら大勢が訪れたことがうかがえる。
大興行には莫大(ばくだい)な資金が必要となり、中坪村出身で高遠で卸問屋をしていた泉屋与左衛門が資金を提供した。与左衛門は高遠藩主に金を貸し、苗字帯刀を許されて禄(給与)をもらうなど破格の財力と信用を得た豪商だった。
大興行以前、諏訪大社で相撲を奉納する神事が各地に広がり、中坪村でも例大祭で奉納相撲を行っていた。雷電一行の大興行は「当時は大事だった」と高橋さんは話す。それを機に中坪で相撲がますます盛んになり、五穀豊穣(ほうじょう)や平穏無事を願う奉納相撲大会は庶民の楽しみとして昭和まで続いた。1952年頃に一度途絶えたが、青年会が復活させ、57年に幕を下した。
手良公民館の竹中俊館長(77)=中坪=は「子どもの頃は時間があれば、よく相撲をしていた。祭りで相撲を取るときは若宮の前が人であふれ返っていた」と振り返る。
中坪には今も、大興行で力士から教わった相撲甚句や雷電一行が使ったとされる風呂おけが残されている。だが、史料が少なく、分かっていないことも多い。伝承も時の流れとともに風化しつつある。
竹中館長は「中坪はいろいろな歴史があるところ。雷電が注目されるのをきっかけに中坪の歴史にも関心が集まってほしい」と願った。
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